COURRiER Japonの最新号でドイツ紙による"ドトール"ソクラテスの 
インタビュー記事が紹介されてる。 

云っていることを単純化すれば、商業主義/拝金主義のせいで、セレソン
でさえ'82のジーコのような創造性を失って醜くなっているというものだ。

そこで思っていたのは創造性あるプロスポーツの条件だ。

日本は最近でこそ格差社会が指摘され、子供の学費を稼ぐために援交する
主婦が出始めてきてたりする。だが識字率は高いし(総中流は崩れても)多く
の国民は毎日の生活で食うことまで困ってるわけじゃあない。

これは日本が表向きは"富める国"であるためで、カビの生えたスポーツ論
で出て来る"ハングリー精神"を減じる環境を意味してる。だが、ハングリー
精神が生み出したものは激烈な競争と勝者総取りの商業主義スポーツかも
知れない。

その結果"カネのため"のサッカーが台頭し、"勝利"という単純で評価しやすい
ものさしが標準化し、"効率重視の強いサッカー"を求めることが必然になって
いるのが現在のサッカーなんじゃないのか。

一方、"プロとして食べていく"ためにJでもサッカーは為されているけど、
日本は上記の富める国ゆえに「リッチになるため」というより「サッカーを
して暮らしていく」意味が強いんじゃないのだろうか。これは「サッカー
そのもので自分の人生を愉しむ」ことに通底するはずだ。

日本社会が持つ豊かさが、結果的に「愉しむためのサッカー」を支えていて、
それが今となっては旧くて新しい「創造性あるプロスポーツ」につながる
可能性を残してくれているのかも知れない。

その辺りのゆとりが、"平安貴族的"とも評されるワーワーを裏から支えていたり
してな。

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